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●延吉の街(遼西地方) 延吉は俗に局子街と稱し、五十餘年前までは樹木叢生野獣徘廻、僅かに砂金、人參等の採取者或は獵夫などの小屋が點在する荒涼未開の地であつたが、邊境からの鮮人移住者增加と共に、その對抗策として光緒七年(明治十四年)に、支那が煙集崗の地を卜して招懇局を設置し、自國民の移住開懇獎勵の結果遂に重要な農地となり、同年二十八年に延吉廳が設置されてから、全く見ちがへるやうな一市街を成すに至つた。それが今の延吉縣で、間島は縣治下の總稱だ。 (印畫の複製を嚴禁す)//●延吉の街(遼西地方) 延吉は俗に局子街と称し、五十余年前までは樹木叢生野獣徘廻、僅かに砂金、人参等の採取者或は獵夫などの小屋が点在する荒涼未開の地であつたが、辺境からの鮮人移住者増加と共に、その対抗策として光緒七年(明治十四年)に、支那が煙集崗の地を卜して招懇局を設置し、自国民の移住開懇奨励の結果遂に重要な農地となり、同年二十八年に延吉庁が設置されてから、全く見ちがへるやうな一市街を成すに至つた。それが今の延吉県で、間島は県治下の総称だ。 (印画の複製を厳禁す)

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