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●掏鹿の街(西豐縣) 掏鹿は、もと淸朝の狩獵地で、康熙年間以來荒蕪に委せてあつたのを、光緒二十二年に開放、移住開墾してから、人口漸次増加を來たし、二十六年には總管衙門を置き、二十八年に西豐縣公署を創置した。爾來政治、商工業の中心となり、洋式建物多く、大小の商店櫛比し、頗る繁盛な街となつたが、圖のやうな舊式の商賣もまた軒を竝べてゐる。開原の殷盛は一に掏鹿地方の大豆の惠みによるといふも過言ではあるまい。 (印畫の複製を嚴禁す)//●掏鹿の街(西豊県) 掏鹿は、もと清朝の狩猟地で、康煕年間以来荒蕪に委せてあつたのを、光緒二十二年に開放、移住開墾してから、人口漸次増加を来たし、二十六年には総管衙門を置き、二十八年に西豊県公署を創置した。爾来政治、商工業の中心となり、洋式建物多く、大小の商店櫛比し、頗る繁盛な街となつたが、図のやうな旧式の商売もまた軒を並べてゐる。開原の殷盛は一に掏鹿地方の大豆の恵みによるといふも過言ではあるまい。 (印画の複製を厳禁す)

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