ajiataikan006
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明と淸との關が原//營盤//明と清との関が原 (営盤)//1930//營盤の北なるこの薩爾滸[サルホ]山での一戰は、明淸興亡史の跡にたづねて、その關ヶ原とも言ふべき戰であつた。時は明の萬曆四十七年、滿賊討滅軍の左翼中路の將領を承つた明の勇將杜松は、思はない策戰の齟齬から、其の兵數萬を失ひ、自らも遂に斃れ、明淸興亡の大局は茲に定つた。血はこの河水を朱にし、旌旗死屍はこの河面を蔽ふたと記錄される。|(一九三〇撮影)(印畫の複製を禁ず)//営盤の北なるこの薩爾滸[サルホ]山での一戦は、明清興亡史の跡にたづねて、その関ヶ原とも言ふべき戦であつた。時は明の万暦四十七年、満賊討滅軍の左翼中路の将領を承つた明の勇将杜松は、思はない策戦の齟齬から、其の兵数万を失ひ、自らも遂に斃れ、明清興亡の大局は茲に定つた。血はこの河水を朱にし、旌旗死屍はこの河面を蔽ふたと記録される。|(一九三〇撮影)(印画の複製を禁ず)//

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