ajiataikan012
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大和尚山の山城//大和尚山の山城//大和尚山の南半の峰より峰へと續く蜒々なる數千米の石壘は高さ約三米幅約二米餘りあり。大和尚山の一偉觀なり。|これは隋書の卑奢城、唐書及び遼東志、全遼志、の沙卑城、資治通鑑並に弘治三年重修勝水寺碑記の卑沙城の舊址に批定せらるゝものなり。|今これを肯定して述べれば、卑沙城は當時遼東半島の咽喉を扼すると共に海上交通の重要なる地點に在りし為め、隋の煬帝の大業十年(西紀六一四)には隋の高句麗遠征の水軍の將來護兒、本城を攻略し斬首千餘級を得、又唐の貞觀十九年(西紀六四五)には唐の水軍の將張亮戰艦五百艘を率ゐ平壌を衝かんとする途、程名振をして攻略せしめ男女九千口を得たること史書に見ゆ。|尚左に取るに足らざる荒唐無稽の口碑に過ぎざれとも、土人の信ずる本城の築造城の由來に就いて述べん。唐の太宗此の山に來りて病に臥せし時過々山中に鰌魚(泥鰌)あり。來りて封册を得て龍とならんことを請ひしが、太宗其の煩を厭ひ難題を課して曰く。翌日鷄鳴の時を限り一城を山上に築き竣らば汝を封ぜんと。然るに此夜雷雨起り城半ば成らんとせしかば、太宗計を案じ工成らざるに先立ち故に群鷄をして曉を告げせしむ。鰌魚終に封を得ずして柳河鎭に歸り潜伏すといふ。|(印畫の複製を禁ず)//大和尚山の南半の峰より峰へと続く蜒々なる数千米の石塁は高さ約三米幅約二米余りあり。大和尚山の一偉観なり。|これは隋書の卑奢城、唐書及び遼東志、全遼志、の沙卑城、資治通鑑並に弘治三年重修勝水寺碑記の卑沙城の旧址に批定せらるゝものなり。|今これを肯定して述べれば、卑沙城は当時遼東半島の咽喉を扼すると共に海上交通の重要なる地点に在りし為め、隋の煬帝の大業十年(西紀六一四)には隋の高句麗遠征の水軍の将来護児、本城を攻略し斬首千余級を得、又唐の貞観十九年(西紀六四五)には唐の水軍の将張亮戦艦五百艘を率ゐ平壌を衝かんとする途、程名振をして攻略せしめ男女九千口を得たること史書に見ゆ。|尚左に取るに足らざる荒唐無稽の口碑に過ぎざれとも、土人の信ずる本城の築造城の由来に就いて述べん。唐の太宗此の山に来りて病に臥せし時過々山中に鰌魚(泥鰌)あり。来りて封冊を得て竜とならんことを請ひしが、太宗其の煩を厭ひ難題を課して曰く。翌日鶏鳴の時を限り一城を山上に築き竣らば汝を封ぜんと。然るに此夜雷雨起り城半ば成らんとせしかば、太宗計を案じ工成らざるに先立ち故に群鶏をして暁を告げせしむ。鰌魚終に封を得ずして柳河鎮に帰り潜伏すといふ。|(印画の複製を禁ず)//

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