ajiataikan012
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觀音閣勝水寺//寫眞は全景//観音閣勝水寺 (写真は全景)//觀音閣勝水寺は大和尚山の東腹、一大巨洞の迫る懸崖の處に建立せらる。|本寺も亦唐建說あれど何等確證なく、弘治三年の重修勝水寺碑によれば明の洪武の初め陳德新方影山なる二僧此の地に遊び、寺院の舊址を發見し堂宇を建つと云ふ。其の後屢々重修せられ、近く咸豐二年(西紀一八五二)來觀和尚に至り、再び之を修築し、又日淸戰役に於て日本軍と挺身奮戰し威名を擧げ虎將軍と讃へられ出家して廣明和尚と呼ばれし者が、唐王殿石彭寺より此の寺に轉住して、大いに寺の復興に努力し先年遷化せらる。人皆稀に見る高德の僧と景仰せり。|境内に古碑多く、最も古きものは明の弘治三年の碑にして次に嘉靖四年(西紀一五二五)萬曆四年(西紀一五七六)の碑あり。其の外は淸代及び最近のものなり。|觀音閣より南に下り行くこと約三丁にして、禪室あり、世に勝水寺と云ふ。併し何等寺院としての設備を具へざれば觀音閣と分離して考ふべきものにあらずして、兩者を一にして觀音閣勝水寺とすべきなり、此の事は數多くの重修の碑を見れば明かなり。|(印畫の複製を禁ず)//観音閣勝水寺は大和尚山の東腹、一大巨洞の迫る懸崖の処に建立せらる。|本寺も亦唐建説あれど何等確証なく、弘治三年の重修勝水寺碑によれば明の洪武の初め陳徳新方影山なる二僧此の地に遊び、寺院の旧址を発見し堂宇を建つと云ふ。其の後屡々重修せられ、近く咸豊二年(西紀一八五二)来観和尚に至り、再び之を修築し、又日清戦役に於て日本軍と挺身奮戦し威名を挙げ虎将軍と讃へられ出家して広明和尚と呼ばれし者が、唐王殿石彭寺より此の寺に転住して、大いに寺の復興に努力し先年遷化せらる。人皆稀に見る高徳の僧と景仰せり。|境内に古碑多く、最も古きものは明の弘治三年の碑にして次に嘉靖四年(西紀一五二五)万暦四年(西紀一五七六)の碑あり。其の外は清代及び最近のものなり。|観音閣より南に下り行くこと約三丁にして、禅室あり、世に勝水寺と云ふ。併し何等寺院としての設備を具へざれば観音閣と分離して考ふべきものにあらずして、両者を一にして観音閣勝水寺とすべきなり、此の事は数多くの重修の碑を見れば明かなり。|(印画の複製を禁ず)//

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