ajiataikan012
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歸服堡//帰服堡//歸服堡は城子疃三淸廟に隣接せる土城である。城は低い丘の南麓に築かれ、南北一九五、八米、東西一〇九米殘存土壁の高さ幅各約四米ばかりで、昔は一門南に在りしのみであつたが、今は南と東に各々一門がある。併し現存の南の門は昔の門と同一ではなく西にかたより、往時の門は土を以つてふさがれてある。|此の城堡が何が故に歸服堡と稱せらるゝか、其の理由は明かではないが、唐の太宗が高句麗を征伐した時、此の城を攻畧して高句麗を歸服せしめた為めであるとか、或は明代倭寇が此の地で戰ひに破れ降服した故とか傳へられてゐるが、共に俗説で遽かに信ずることができない|併し貔子窩の西城子と同じく明代の築造であらう、|城の附近北山及び天台山に各々土築の烽火台の跡がある。|寫眞は城内の東側で、崩れたる土壁と、歸服堡の石額のある三淸廟の堂字が見える//帰服堡は城子疃三清廟に隣接せる土城である。城は低い丘の南麓に築かれ、南北一九五、八米、東西一〇九米残存土壁の高さ幅各約四米ばかりで、昔は一門南に在りしのみであつたが、今は南と東に各々一門がある。併し現存の南の門は昔の門と同一ではなく西にかたより、往時の門は土を以つてふさがれてある。|此の城堡が何が故に帰服堡と称せらるゝか、其の理由は明かではないが、唐の太宗が高句麗を征伐した時、此の城を攻略して高句麗を帰服せしめた為めであるとか、或は明代倭寇が此の地で戦ひに破れ降服した故とか伝へられてゐるが、共に俗説で遽かに信ずることができない|併し貔子窩の西城子と同じく明代の築造であらう、|城の附近北山及び天台山に各々土築の烽火台の跡がある。|写真は城内の東側で、崩れたる土壁と、帰服堡の石額のある三清廟の堂字が見える//

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