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研究・調査活動―シンポジウム・ワークショップ

辛亥革命百周年記念日本会議 東洋文庫特別講演会

・日時:12月2日(金)16:00~18:00
・会場:(財)東洋文庫新本館2階講演室
(ポスターはこちら
・報告者及び報告テーマ
開会挨拶 高田幸男(明治大学教授・東洋文庫現代中国研究資料室長)
「逆境の中の守りと前進—新発見史料より南京臨時政府の外交を見る」王建朗(中国社会科学院近代史研究所)
「東アジア史上の辛亥革命」裴京漢(新羅大学校)

 12月3日・4日に駒場で開催される辛亥革命百周年記念日本会議東京会議の一部として、前日の2日(金)に、財団法人東洋文庫で特別講演会が開かれた。講演者は、中国社会科学院近代史研究所所長である王建朗氏と、新羅大学校教授の裴京漢氏である。

 王氏の講演は、「逆境の中の守りと前進—新発見史料より南京臨時政府の外交を見る」と題され、1911年の革命直後に成立した南京臨時政府(以下、同政府と略)についての研究である。氏は、同政府が存続したのが3か月と短く、外交についてもほとんど知られることがなく、また現存する史料が少なかったため、ほとんど研究の俎上に載せられることはなかった、と指摘し、今回、南京の第二歴史档案館から同政府の外交交渉について発見された資料を元にして、同政府と列強との交渉について以下の5点をうかがい知ることができた、と述べた。
 1点目は、治外法権についてである。辛亥革命後、列強は上海合同審判法廷を設置して外国人による管理を試みた。福建省のアモイでも列強の領事館は鼓浪嶼合同裁判所を設置して上海と同様に司法の管轄権を主張しようとした。しかし、同政府の資料からは福建の中国人官員が民衆の感情を後ろ盾として、合同裁判所に対する主導権を維持したことがわかった、と指摘した。
 2点目は、海関主権の維持についてである。清末、中国の海関(日本の税関に相当する機関)は、中国人の海関監督と、外国人が管理する税務司という二つのポストにより運営されていた。辛亥革命後、海関では外国人職員の権利が拡大し、海関監督の職権をも掌握しようとしていた。とりわけ、徴税権を税務司が管理するようになると、福州では同政府が税務司を管理しようと試みた。結局、同政府と税務司はお互いに譲歩し、税務司は徴収した税金を中国側に引渡し、同政府はその税金を銀行に預金することで手を打った、とする。
 3点目は、在華外国人の入境管理についてである。清末以来外国人の宣教師と商人に対して内陸部への通行が認められていたが、辛亥革命以降は治安の悪化のために、地方政府は入境登録を行うことで外国人の入境を許可した。しかし、ここにはこの機会を利用して外国人に中国の法令を遵守させるという意図が垣間見える。事実、同政府の資料は福建の宣教師たちに中国人と同様の待遇を受けることを承諾するように要求していたことを示している。
 4点目は、アヘン吸引禁止についてである。1912年1月に浙江をはじめとした中国各地の軍政府はアヘンの全面禁止を通告した。イギリスは地方におけるアヘン取締風潮を重く受け止めた。アヘン禁止をめぐる中英間の交渉は外交交渉に発展したが、同政府は内政問題で緊迫した問題を抱えており、外交部は大きなもめ事を起こすことを嫌った。ゆえに、外交部は外国産アヘンの吸引禁止について言及することができなかった、と述べた(もちろん、こうした外交部の妥協方針は地方政府レベルで同意を得たわけではなかった)。
 5点目は、海外華僑権益の保護についてである。南京臨時政府は北京政府よりも海外の華僑保護を重視していたことがわかる。たとえば、「泗水事件」(泗水は現在のインドネシアのスラバヤ)においては、海外華僑の権益を保護する交渉に成功していた。
 最後に王氏は、総括して、総合的に言えば、南京臨時政府の外交は本質的に守りを重視したものであった、と述べた。ただし当時の情勢からは、列強から積極的に利権を回収しようとするのは難しく、同政府は逆境の中で国家主権を堅持し、なおかつその損失を最小限におさえようと努力したのだ、と評価した。

 
 続いて、裴氏が「東アジア史上の辛亥革命」と題する講演を行った。
 東アジアの歴史を見たとき、辛亥革命には二つの重要な意義がある、と裴氏は指摘する。一つは、中国における2000年以上の王朝体制を打破して共和体制を施行したこと、もう一つは辛亥革命が中華帝国秩序を瓦解させたと同時に、新しい国際秩序の模索をアジアの人々に模索させたということである。この報告では、この2点をより具体的に分析した。
 一つめの意義に対して、裴氏は、辛亥革命が韓国およびベトナムの独立運動にどのような影響を与えたのかをまず整理した。1910年8月に日本の植民地統治下に入った韓国にとって、辛亥革命は福音に他ならなかった、とする。革命を契機として韓国人の独立運動家たちは中国への亡命を始めたからである。彼らは中国での革命に協力し、孫文らの革命派人士と交流して共和主義を受け入れ、近代国家建設の目標にしようとしたのである。
 次に、ベトナムの独立運動に対しても、辛亥革命は大きな影響を与えた。ファン・ボイ・チャウによる「東遊(ドンズー)運動」によって日本に留学したベトナムの学生たちは中国の革命派人士と接触して共和主義に傾倒する。この運動は1909年に幕を下ろすが、武昌蜂起の成功は、アジア各地に四散していたベトナム独立運動家を広州に集わせ、ベトナム光復会設立へと導いたからである。光復会が共和体制国家建設を標榜したことも辛亥革命の影響ということができよう、と裴氏は指摘した。
 もう一点目の意義、すなわち東アジアの国際秩序の模索及び周辺民族の独立要求への対処という点に対しては、大きな影響を与えたとは言い難い、と裴氏は述べた。なぜなら、中国の革命における周辺民族の独立運動への認識は、周辺部分を属国もしくは緩衝地帯と見なす伝統的な領土観から脱しきれていなかったからである。同時に、中国における革命自体が独立運動を支援できるほど発展していなかった、とも指摘した。

※写真は、12月5日、辛亥革命百周年記念東京会議参加者有志による、東洋文庫参観が行われたときの写真

報告者等紹介
王 建朗(ワン ジエンラン)…
中国社会科学院近代史研究所所長、東洋文庫現代中国研究資料室海外共同研究者。

裴 京漢(ぺ ギョンハン)…
新羅大学校教授

文責・
土肥歩(東京大学大学院博士課程)

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